きっかけ
中学校の数学の授業で「ゼロは数学上の大発見だった。ゼロの発見がなければ今の科学の発展もありえない」と聞きました。
そのときは「へえ、そうなのか」くらいに思っただけでした。
ではゼロの発見によって、なぜ数学が発展したのでしょうか。
ゼロは、どのように科学の発展に貢献したのでしょうか。
大人になってふと気になり、
図書館で数冊の本を借り、ゼロの発見について調べてみました。
図書館に数学のコーナーが存在し、数学の歴史については探すのに困らないほどの本が身近にあることが、まず新しい発見でした。
調べながら、このように考えました。
ゼロの発見によって科学が発展した、どころではなくて•••
むしろ、そもそもゼロが科学そのものを可能にした、というべきです。(ゼロすごい+ゼロ発見には現代では考えられないくらいの壁がありました)
結論から言ってしまったので、これから経緯を説明します。
調べる中で、文系人間で数学大嫌いだった私が、数学とは・科学とは、について考えるきっかけにもなりました!興味を持ってくれた方は、ぜひ最後まで読んでくれると嬉しいです(4-5分です)。
それでは、ゼロの発見について見ていきましょう。
※あくまで素人が理解できる範囲で調べて書いたものです。何冊か本を読んで3時間くらい調べたので、大まかな理解にはつながると思いますが、研究やレポートに使えるレベルではないのであしからず。
①空位の記号としてのゼロ
ゼロ発見の過程を、ごく単純に表すと、2段階になります。
①空位の記号としてのゼロ
→マヤ文明・古代バビロニア王国・古代ギリシャなど
②無を表す概念としてのゼロ
→インドで発明されアラビアを通じてヨーロッパに伝わる
まず①空位の記号としてのゼロとは何でしょうか??
古代には1~9を表す記号はありました。
しかし、ゼロを表す記号がありませんでした。
すると、どうなるか?
たとえば「305」を表そうとする場合、3と5のあいだ(つまり空位)を少し空けて書くことになります(=「3 5」)。
しかし、これでは35との区別がしづらいですね。不便です。
そこで、空位の記号が発明されました。
たとえば古代バビロニアでは△の記号が使われ、「3△5」のように書きました。
これで、「35」と「305(3△5)」の区別がしやすくなりました。
空位の記号が古代ギリシャに伝わったときに、△ではなく「〇」となりました(偶然0に近い形をしていますが、円形に近い記号でした)。
繰り返しますが、この空位の記号により、現代でいう「35」と「305」の区別ができるようになりました。
※ 古代バビロニアやギリシャでは「2」や「3」のようなアラビア数字は使っていませんでしたが、便宜上アラビア数字を用いて説明しています。
ただし空位の記号が使われたとしても、無を表す概念としてのゼロが生まれるにはまだ時間がかかりました。
つまり、空位の記号は、「無を表す概念」ではなかったということです。
したがって、現代数学では「リンゴがゼロ個ある」といえますが、
古代ギリシャ時代では、そのように考えることができませんでした。
いや•••
古代ギリシャにおいては、無を表すゼロという概念に薄々勘づきながらも、その存在を拒否していた、といった方が近いです。
なぜなら、ギリシャ哲学は無というものを認めなかったからです。
ギリシャでは世界の始まりと終わりを考えました。
宇宙はいつから存在するのか。最初は無の状態だったのか。
いやいや、何も存在しない無の状態などありえない。
考えに考えた結果、大哲学者アリストテレスは無を否定し、無限に続く有の世界を提唱しました。
そしてこれがギリシャ哲学のスタンダードになり、結果として無の概念が受け入れられることがありませんでした。
だから、現代数学では当たり前の「負の数(マイナス)」が生まれることもありませんでした。
②無を表す概念としてのゼロ
その後を見てみましょう。
紀元前300年代にアレクサンドロス大王が現れ、ヨーロッパからアジアにわたる大帝国を生み出しました。
その際に、ギリシャの数学がインドに伝わりました。
そして、インドで無の概念としてのゼロが「発明」されることになります。
つまり、「ここにリンゴがゼロ個ある」「私にはゼロ人の兄弟がいます」など表すことができ、ゼロを実数(実体のある数)として扱うようになったということです。
※628年、数学者ブラーマグプタが著書のなかで、ほぼ現代と同じゼロの定義をしています。
この「発明」が負の数を生み、数学や科学の発展につながっていきます。
ここで発見ではなく「発明」という言葉をあえて使っています。
なぜかといえば、ゼロそのものはインド以前にも発見されていた。それを無を表す概念として数学に使えるようにしたのがインドだからです。
なぜインドだったのか。主な理由は2つあります。
1つめに、インドではギリシャと異なる形ではあるが数学が発展していたこと。
(ギリシャ=幾何学 インド=代数学 がそれぞれ発達)
2つめに、ヒンズー教や仏教が無を認める宗教であったこと。
これもゼロを受け入れる土壌になっていたはずです。
こう考えると、ゼロを認めるかどうかは、宗教や哲学に大きく左右されることが分かります。
ヨーロッパでゼロが受容されたのは1600年代
これは調べて驚いたことですが、
この後ゼロがヨーロッパで受け入れられるのは、1600年代になってからのことです。
インドから1000年近く経っています。
どうしてこのようなことが起こったのか。
答えは、キリスト教もまたギリシャ同様に無を認めなかったからです。
キリスト教の偉い人「人間が無(ゼロ)を扱うことなどありえない。それができるのは無から天地を想像した神だけだ。ゼロを認めることは、神の教えが誤っている、ということに等しい。」
どれほど拒絶したのかといえば、カトリック教会がゼロを提唱する数学者を迫害したほどです。
この話、何かと似ていないでしょうか。
そう、天動説と地動説です。
ガリレオが科学的見地から地動説を発表しようとした際、聖書と矛盾するという理由で教会から迫害を受けたのと同じです。
「ゼロ」と「天動説vs地動説」。2つの話が似ているのも当然です。
なぜなら、数学と天文学はともにこの世がどのようにできているかを追究する学問だからです。
キリスト教と矛盾する話を提唱すれば迫害されることになります。。
しかし、いずれ地動説が認められるように、ゼロが宗教と切り離され、存在を認められることになります。
そして以後数学が加速度的に進化し、自然法則を解き明かし、科学と技術の発展の土台となりました。
ゼロの存在を認めるということは、「世界を科学的に見るためのスタートラインに立つ」ということに他なりません。
その後の数学
以後の数学の発展として、有名なものに以下があります。
①デカルト(1596~1650)=座標系の発明。座標の中心点は(0、0)であり、中学生が習う一次関数も0がなくては成り立たない。
②ライプニッツ(1646〜1716)=0と1を用いる「二進法」を発明。コンピューターの基礎になる。
③ニュートン(1642〜1727)=微分・積分の確立。運動と変化を理解できるようにしました。
ちょっと難しいことは私には理解できないのですが(さらにその後の量子力学や相対性理論などは、私はまったくついていけません)、
①については、「負の数(マイナス)」の概念を受け入れる過程にあったのだと思います。
【流れ】ゼロを受け入れる→負の数を受け入れる→その後の数学・科学の発展
つまり、ゼロを受け入れることで数学と科学が加速度的に発展していくことになる。
さいごに~ゼロの歴史を調べてみて考えたこと~
まず気づいたのは、日常生活においては、空位の記号さえあれば何とかなるということです。
△や〇など、空位の記号があって、少なくとも9の次の数が11だったり、32と302の区別がつかなかったりということがなければ、おつりや時間、人や物の数を計算することはできます。
無の概念を使って「これからリンゴをゼロ個買いに行きます」「私には兄弟がゼロ人います」など言うことはまずないですよね。
これは、日常生活において私たちと数のかかわりが主に「算数」で済むからだと思います。
ゼロを無の概念として捉えるのは、「数学」の世界においてです。
そして数学とは、日常生活における数の扱いではなく、世界の仕組みを明らかにする・私たちが世界をどう見るかという哲学的な学問です。
だから、数学を学ぶことは、単に方程式や、図形にかかわる証明問題を解けるようになるためではありません。
世界の仕組みを明らかにしようとした先人たちの足跡をたどることです。
そして、世界に対して新たな可能性を見出す力を身に着けていくことです。
私たちにとって当たり前すぎる「ゼロ」という概念が、なかった世界。
その世界を決して馬鹿にすることはできません。
なぜなら、数百年後の人間にとって当たり前となる概念に、私たちが気づけていない可能性が大いにあるからです。
たとえばの話ですが、いずれは人間のオーラのようなものが科学的に解明されるかもしれないし、人の思念や想像が現実におよぼす力など非科学的とされるものが数値化されるかもしれません。
数学を(あるいは数学の歴史)を学ぶことで、「当たり前」に気づいていないかもしれない自分たちの立ち位置を謙虚に受け入れ、新たな大発見の可能性を開いていくことにつながる。
ゼロの歴史を調べることで、算数と数学の違い、そして数学を学ぶ意義に気づくことができました。
このように数学の歴史・そもそも数学とはどのような学問か、を学ぶことで、私のような文系人間でも数学に興味を持つことができました。
(個人的には、中学や高校の先生が、もっとこういう話をしてくれたら良かったのになあ・・。)
今後も自分のペースで少しずつ数学との距離を縮め、新たな発見を得る機会としていきたいです。
ありがとうございました。